おすすめ本 2冊目 『博士の愛した数式』小川洋子
もし記憶が80分しか保てなかったら、私たちにどんなことが起こるでしょう。昔の記憶は残っているのですが、80分以前の最近の記憶は、一切残らないのです。例えば昨日会った人の記憶すら無いのですから、今日その人と会っても「初対面の人」としか思えません。世界のあらゆるものが初めて見るもの、見慣れないものになるでしょう。自分自身すら昨日の自分はなく、現在の自分しかいなくなるのです。そんな世界で生きるのはどれほど寂しく、心細いでしょう。
この本には交通事故でそんな障害が残ってしまった、文字通り孤独な老数学者が登場します。17年前の事故のせいで「記憶の蓄積」は終わり、それ以降1時間20分しか記憶が持たなくなったのです。彼は外見には一切無頓着で、一日中数学の問題を考えています。他人との交流の記憶が一切残らないが故、深い孤独の中にいる博士の、唯一の心の拠り所となっているのが、美しい「数」の世界なのです。
彼は数学以外には一切興味が無く、年中着ている古びた背広に付箋をいっぱい貼り付けています。「ヒルベルト、第13問題の…」「楕円曲線の解を…」といった専門用語にあふれた付箋の中に「僕の記憶は80分しか持たない」という付箋が貼られています。そしてある時そこに「新しい家政婦さん」という付箋が加わります。この、家政婦としてこの「博士」の元へ派遣された「わたし」の視点から物語は描かれます。やがて彼女の息子「ルート(√)君」も加わり、三人の会話を通じて読者も不思議な数の世界に誘われていきます。博士の語る興味深い数の世界に親子はやがて魅了され、そしてこの親子と博士とが数学を通じて心を通わしていく過程が描かれていきます。
博士によって紹介される数の世界、一つだけネタバレですが紹介してみましょう。
「完全数」ー約数(それ自身以外の)を全て加えるともとの数になる数のことです。
6の約数は、1,2,3と6です。6以外の約数の和は1+2+3=6です。
28の約数は1,2,4,7,14,28。28以外の約数の和は1+2+4+7+14=28。
496の約数は 1,2,4,8,16,31,62,124,248,496。496以外の約数の和は…(やってみてください)
1+2+3+4+5+6+7=28
1+2+3+4+5+6+…30+31=496
こんな数どこにでもころがっていそうですが、一万以下の完全数はたった4つしかありません。6、28、496、8128。しかも今のところ51個しか見つかっていないそうです。その51番目の数は4900万桁以上もあるとか…
こんな不思議な数の世界が物語と絡み合わせて紹介され、それを通じて描かれる博士の純粋な心と、家政婦親子の心の交流は感動的です。
数学が好きな人も、そうでない人も一切専門知識は必要ありません。ぜひ数の「美しい」世界に触れてみてください。